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合掌。

今日、友達夫婦がやって来て、
1歳になる子供を自転車のカゴに乗せるや乗せぬやの話をし、
帰って行った後に、年の頃にして50そこそこの女性が来た。
 
何を探すでも欲するでも無く、興味を持つ様子でも無く、 
店の入り口で立ったまま、溢れ出す様に語った。
曰く「私の息子が、自転車で事故をしたんです。」と。 
 
保険処理の話かな?と思い、耳を傾けている中で、
息子さんはピストバイクが好きな事、銀輪に来られた事も有る事、
共通の知人が有る事、そんな内容に雑じっていた、
「昨年の9月、事故で亡くなったんですが。」という一区切りが、
壁に投げつけたトマトの様に、耳に張り付いた。
 
 
 
ピストバイクに興味を持ち、友人と自転車に乗り、
楽しい日々を送っていた最中、車と当たり、それでお仕舞い。
 
亡くなった彼は、それで満足だったろうか? 
残された母親は一年後もこうして、居ない息子の跡を辿り、
何処で、何を見て、何をしていたのか、探して歩いている。
そんな中でも、まだ彼が満足な生活を送る中で最期を迎えたのならまだ良い。 
 
でも、満足だと言える程の何かを得て、それに見合うリスクの結果としての、
この世からの離脱だったんだろうか? 
そうで有る無しは、本人にしか分からない、本人さえ分からない。
少なくとも、漂うしかない母親が探すのは「そうで有った」という証明なのだろう。 
 
 
 
人は毎日生まれ、成長し、そして消えて行く。
それは当然の事で、何ら残念がる事でも悲しむ事でも無いはずだ。
 
けれど、自分に最期の鉄槌を下すのは、何モノなのか?
それを吟味する事こそが、人生と言うモノの目的であるかもしれない。 
 
ノーブレでもシンナーでも海水浴でもスカイダイビングでもタバコでも、
何でも良いけど、自分の死んだ後に誰かが「如きで死んだ」と言ったなら、
幽霊になった状態で、
「オマエにとっては如きでも、俺にとっては如きじゃ無かったんよ。」
と、言えるんだろうか?
 
そう言えれば、スッとこの世の循環の中に還って行けるんじゃないかと思うし、
言い換えれば「如き」と思う事では終わらせたく無い。 
 
 
 
MTBでもダートでハイカー引っかけりゃ死を呼ぶし、
ロード乗ってても落車すりゃ死ぬし、しゃっくりで死ぬかもしれんし。
死は大量生産品な上、確率なんてモンは時に人に不平等なモノやから、 
ノーブレで死ぬなとも信号無視で死ぬなともスっ転んで死ぬなとも言わない。
僕は神さんやないから。
 
けど、カルチャーとかお洒落とか人との距離の擦り合わせとか置いといて、
人から「如き」と批判された時、
少なくとも自分だけは、目を剥いて肯定出来なければ、それは即ち時間の無駄。 
 
生きている時間だけがチャンスタイム。
それが終わると、意見を言う権利も無くなる。 
 
 
 
誰が悪い。人への影響。法律の解釈。他にも色々有るやろうけど、
「自分の意見はコレで良いのか?」
完璧な答えは絶対に出ません。だから答えなくて良いという事ではありません。
 
生きている内に何度でも考えましょう。
合掌。